"東京"における幼少期技術教育の特殊性

前提

このエントリを書くきっかけは,昨日,とあるシークレットなイベントでシラフおよび飲みの会場での話だ. でも,エンジニアの地位とか幼少期教育*1に関わるどこのテーブルでも聞かれる話でもある.一般論として捉えて頂きたい.
そして,ここで私が記す仮説が正解だと強弁するつもりもない.私の経験には基づいているけれども,長女はまだ10歳,次女は8歳,長男に至っては3歳.あと15年は追跡しないと評価不能だろう.

東京と地方の違い?

教育の難しさを考える文脈で,割と出るのは,東京*2と地方の子供たちの反応の違い.テンプレートは,下記のようなもの.

  • 地方の子供と東京の子供は違う
    • 地方の子供に教えると,目をキラキラさせる.純朴
    • 東京の子供は…

その理由としてのテンプレートは,

  • だって,東京には,技術教育以外に面白いものがたくさんあるし
  • そういえば,地方には,何も無いものね.

というもの.

上記は,実際に教育に携わった人の経験に基づく意見なので,否定の余地は無いように思う.しかし,そこを敢えて考えてみる.今日的な理由として正しいだろうか.

映画やボウリングやアーケードゲームが娯楽だったような30年前なら,真だろう. しかし,今や子供たちの娯楽に特別な施設は要らなくなりつつあることには,別段の異論はないだろう.家庭用ゲーム機の普及で自宅で十分に遊べるし,郊外型ショッピングモールの林立でゲームソフトやマンガを始めとする娯楽リソースには容易にアクセスできるようになった.
入手困難なソフトは,Amazonワンクリックで翌日には手に入る.面白い動画も,webブラウザのワンクリックで地域格差なく表示できる.うわ駅前に何もないじゃんっていうような田舎でも,ADSLしか引けないから遅いっていう程度のハンデだ.
30年前と同様の,公園や校庭で遊ぶ好きな本を読むなどの子供の活動は,もともと地域格差が少ない*3
技術教育以外の子供の娯楽に関しては急速にフラット化が進んでおり,東京の子供の特殊性は失われる方向にあるはず. ここであっさり書いたので繰り返す."技術教育以外の子供の娯楽に関しては"

仮説

事実関係

東京という都市は,極めて恵まれている.各県の県庁所在地に相当するような規模の区が23個もあり,加えて大規模な市もある.それぞれに課外の学習機会を得られる公立の機関が存在する.国立研究機関や大学が山のようにあり,それぞれが独自に博物館/科学館を開設している.企業のメセナ活動としての博物館/科学館もある.これらの膨大な量の施設は,総計すると膨大な,技術教育の機会を提供している.

また,人口が多いということは,技術者も集積していることも意味する. 篤志を持ったエンジニアや研究者が土曜日や日曜日を使って教育の機会を提供しているのは,web検索エンジンを1分操れば見えてくる.

そして,これらの幼少期教育は,無料もしくは材料費程度,展示の一般公開への入園料程度で提供されている.

この事実は,冷静に考えると,驚くべきことだ. 東京で子供を育てている親の一人として,関係者の尽力にいくら感謝しても足りないくらいだと思う.

けれども,それらの方々を少しがっかりさせるようなことを,私は感じている.

「膨大な技術教育の機会が子供の意欲を失わせる」という仮説

しかし,この豊富さが,東京の子供の技術教育への取組み態度に,悪い方向で影響しているのではないか. 最近,私は,そのように思うようになってきている.

"いつでもできる == ついにやらない"は,古今東西,言われてきたことである.
この悪い関連が,"技術教育"と"東京の子供"の間にできているのではないだろうか.

言うまでもないことであるけれども,この仮説が正しくとも,技術教育の機会を増やそうとしている方々が悪いとは思えない.仮に全ての子供たちに技術教育の機会を一瞬でも与えようとするならば,現時点の機会でも全く足りないのは想像に難くない. 矛盾するように受け取られるかもしれないが,私見としては,技術教育の機会は万人に行き渡るレベルに至っていないとさえ思う.

キュレータとしての親の役割

話を少し脇に振る. 博物館に近づかない大多数の方々にとって,知名度は高くなさそうな*4職業に,"キュレータ"がある.この職種の詳細はWikipedia辺りをご参照頂くとしてザックリと言うと,山のようにある展示・教育リソースを整理構成して,スジの通った独自の企画を打ち出す要職がキュレータである. 博物館のお客さんというのは,言い換えると,キュレータの作ったメニューに沿って体験し,自らの経験の一部とする存在とも言える.

仮説通り,子供が膨大な技術教育の機会を得て選択できない状況にあるとするならば,それらのリソースを整理して子供に体験の機会を提案する存在が必要である.技術教育の機会が複数の組織に跨っている現在の東京において,子供たちにオーダーメードの企画を提案できるようなリソースを各組織に求めるのは難しい. それを唯一可能とするのは,子供が属する家庭であり,その中でキュレーションを行う能力を第一に期待できるのは,親であろうと思う.

キュレータとしての役割を阻害するもの

仮説および対策案が正しいとして,妨げるケースがあるとすれば,2つ考えられる.
一つ目は,親が博物館|美術館|科学館の類に縁がない,もしくは縁遠くなっているというケース. 親が専門職の場合は,(子供の為でなく)自らこの類の施設に行く習慣がついている場合が少なくないが,そういう親ばかりではない.
もうひとつは,親が忙しい,というケース. 全ての親が子供の休みのときに休めるわけでもない. 特に,エンジニアは残業が100時間に迫る勢いなど珍しくないので,事実上,子供のために情報収集などする時間など取れない.

現場の人の感触は否定しないが…

余暇を削って技術教育の機会創出に関わっている人々が,その感触として伝えているのだから,東京の子供は特殊なのかもしれない.
ただ,その原因については,深く検討する必要があるのではと思う.

まとめる.

  • 機会が少ないということは割と意識されがちである.
  • 一方,機会が多すぎることについては,意識されないことが多い.
    • さらに弊害については,頑張りの成果であるがゆえに下手をすると努力の否定に聞こえかねないので,声にするのは憚れる.
  • しかし,その仮説を立てることはできる.
  • その仮説が真だとするならば,親の関与が解決策として期待できる.
  • 解決策としての親も,可避/不可避な課題を抱えている.


(2011年2月15日,文意を変えない程度に加筆訂正)

*1:ここで言う幼少期とは,概ね小学生を指す

*2:私が住んでいて見聞きするのが東京だから.もしかすると「都市部」と汎化できるのかもしれない

*3:もちろん,雪が降ると2時間歩いて学校に行かなければいけないような限界集落は日本にも存在はする.しかし,そういうところに東京から子供向け教育の為に出向くというのは,よほどのレアケースなので今回のエントリでは考慮していない.

*4:というと失礼だが